若者たちへ、まちの「先輩」が届ける言葉 2026
教えて!パイセン!
岐阜市で活躍する“まちの先輩”を訪ね、 じっくりお話を聞く、「教えてパイセン」シリーズ。
今回は、建築設計事務所の代表を務める 武藤圭太郎さんのインタビューです。
東京で修行後、地元の岐阜で事務所を立ち上げ、 着実にキャリアを築いてきた武藤さんに、 これまでの歩みを振り返っていただきました。

武藤 圭太郎さん

武藤圭太郎建築設計事務所 代表 / 一級建築士
1979年岐阜市生まれ。明治大学大学院理工学研究科建築学専攻を修了後、東京の設計事務所で業務経験を積む。2009年に地元の岐阜に戻り、武藤圭太郎建築設計事務所を設立した。これまで設計を手がけてきた建築物は、「北方町新庁舎」「馬喰一代 長良本家」「ばんざい弁当 京町本店」など多数。
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30歳で地元に戻ってから、
岐阜の面白さに気づきました。
「東京で音楽をやりたい」が出発点。

―武藤さんは子どもの頃、将来の職業についてどんなイメージを持っていましたか?
中学生の頃の夢は野球選手ですね。高校生の時に音楽を始めて、「東京で音楽をやりたい」という理由で東京の大学に進学しました。進学後はバンド活動をして、渋谷や高円寺で毎週ライブをするような生活です。将来は音楽で食べていこうと思っていたので建築の勉強には身が入らず、すごく不真面目な学生でした。
―会社に就職することは考えませんでしたか?
あるタイミングで「これ以上音楽では上がっていけないな」と思って、就職活動を始めました。でも、僕は面接がすごく嫌だったんです。大きなハウスメーカーや不動産会社などの面接を受けたんですが、スーツを着て5、6人で面接官の前に並び、自分じゃないようなマニュアル通りの言葉をしゃべる。その結果仮に採用されたとしても、自分がどうなっていくかが想像できなくて。「これは違うな」と思って、就職活動をやめました。じゃあ自分に何ができるかと考えた時に、たまたま建築学科にいたので「これをやろう」と思ったんです。
と言っても、そこから卒業までは1年しかない。1年だけでは足りないから大学院に行こうと必死で勉強しました。無事に大学院に進むことができ、そこから建築の世界にはまっていった感じです。
―大きな会社に就職する以外の将来像を描けましたか?
設計事務所とかアトリエの世界に行けばもう少し自由だろうな、と思いました。どういう表現をするかを考えたり、自分を主張したりする力が問われる。そういう世界の方が楽しいだろうなと考えたんです。
音楽の表現とも親和性があって、音楽をやっていたことが建築というアートの表現につながっていく、ということも多少はあると思います。真面目に大学に行くだけじゃなく、ライブをしたり海外を旅したり、遊びの経験が大きかったかもしれないですね。
―大学院を修了してからはどんな道を選んだのでしょうか。
将来は自分で(設計事務所を)やろうと思っていたので、そのための修行の場としていろんな経験ができる環境で働いた方がいいと考え、小さな設計事務所に入りました。でもその頃って、「建築家、イコール、お金がない」というのが当たり前の時代だったんです。入社後、2年間は給料がゼロ。実家からお米を送ってもらってサンマと納豆だけ食べながら、毎日夜中まで働きました。だから体力的にはきつかったんですが、仕事は楽しかったですね。建物を作る喜びや、考える喜びが大きくて、あまり「仕事をしている」という感じではありませんでした。
何年か経つと、ひとつの物件の最初から最後までを自分で担当することが増えて、「自分でもできるんじゃないか」と思えるようになったんです。30歳を区切りにその事務所を辞めて、岐阜に戻りました。
地元岐阜で、「0」から「1」を作る。

―岐阜で独立しようと思ったのはどうしてですか?
その時代、東海地区に建築家としてぱっと思い浮かぶような人が少ない時代だったので、岐阜に戻れば何となくチャンスがある気がしました。東京の若手の建築家は、マンションのリノベーションを一生懸命にやって雑誌に発表する、みたいな感じだったんです。でも、岐阜に戻れば店舗や住宅を新築で作れるチャンスがあってちゃんとビジネスにできるんじゃないかと、勝手に想像して帰ってきました。
―仕事の依頼をくれそうな人の心当たりがあったのでしょうか。
まったくないですね。知り合いと言っても高校の同級生くらい。「どうやって仕事をすればいいのかな」という状態でした。できることと言えば自分のホームページを作ることと、とにかく人に会いにいくこと。面白そうな人がいたら、とにかく東京時代の実績を載せたチラシを持って話しに行きました。
そこからの一歩目が本当にラッキーパンチで、ホームページを作って半年くらい経った頃に、それを見た方から突然電話をいただいたんです。その方の家を設計したのが最初の仕事でした。とにかく「0→1(ゼロイチ)」ってすごく大事で、最初の「1」が踏み出せたら、「家を建てられる」という事実ができます。そうしたら別の人も「この人に任せてもいいかな」と思ってくれるんですね。岐阜に来て1年くらいでまず仕事ができたことが、すごくラッキーでした。
―そこからさらに飛躍したタイミングはありましたか?
明らかに世界が広がった仕事は、(本巣郡)北方町の新庁舎を設計したことです。名古屋の大きな設計事務所の方と知り合い、「一緒に北方町の新庁舎のコンペに出ますか?」と声をかけていただいたことがきっかけでした。結果、コンペに通って実現に至ったという仕事です。それまでは住宅の設計がメインでしたが、別の方向に世界が広がりました。
―そういう中で、「武藤さんといえば“これ”」というスタイルが出来上がっていったのでしょうか。
それはどうなんでしょう。年数が経つにつれて、「いろんなことをやる」というスタイルに落ち着いてきている気がします。僕は使う素材もいろいろで、決まったデザインの型もありません。だから“これ”という分かりやすいものがほしい人は、僕以外の人に依頼すると思います。「何が出てくるか分からないワクワク」みたいなものを感じていただけたらいいですね。あと思うのは、「強い建築を作りたい」ということです。
―「強い建築」というのはどういうものですか?
住みやすさとか心地よさとかとは別のところに軸を設けるというか。たとえばすごく陰影が深いとか、研ぎ澄まされた何かを感じるとか、生活とは別の軸で強い空間を作りながら、それと生活がごっちゃになるみたいなのが、僕は好きです。
大学院の時にひとりでインドを旅した時、ガンジス川沿いにあるバラナシのガートという階段を見ました。ガンジス川って火葬で人を焼いたりするじゃないですか。その近くで沐浴をしたり洗濯をしたりしている。ぐちゃぐちゃのカオスみたいな状況なんだけど、ガートの大きな階段には、それをすべて受け止める包容力があるように僕は感じました。その階段のように、美しさや便利さという評価を超えた「場所自体の力」というものがあると思っていて、そういうものが作れたらいいな、というのは昔からあります。
環境なんて、自分で変えればいい。

―武藤さんが提案する「強い建築」に対してどういう反応がありますか?
僕の設計した家は、一見住みにくそうに見えると思います。でも、実際に住んだ方から「住みにくい」とか「もっとこうすれば良かった」と言われたことはないんです。依頼された方の生き方や考え方、人生観などを全部書いていただいて、そこから外れないことを前提に設計しています。
地方の特徴かもしれないですけど、人のつながりの中で仕事が生まれることが多いです。だから建築家の個性だけで仕事が成り立つ世界ではないですね。逆に面白さを感じるのは、コミュニケーションを取りながらお客さんと一緒に何かを作っていくプロセスです。岐阜でこの仕事をしていて特にその楽しさを感じます。
―岐阜と東京の仕事で違いを感じることはありますか?
まず、岐阜は土地が広いのでのびのびと建物を作れることが多いです。また、東京の都心部には人が住んでいない場所もありますが、岐阜はどの場所にも人が住むことができます。いろんなものがごっちゃになっていることが岐阜の良さで、その中に人が動いたりとどまったりしている状態、建物と人のコミュニケーションが普通にある状態が、まちとしてあるべき姿だと思います。建物が建っていた場所が駐車場になってしまうと、コミュニケーションがなくなってしまうので、もったいないと思います。
―「岐阜が面白そうだ」という感覚は東京にいた頃からありましたか?
それはまったくなくて。岐阜に帰ってきてから「岐阜が面白いな」と思い始めました。面白い人に会いに行くとそのまわりに面白い人が集まっていて、それぞれ独自の世界観を持っていたりする。バリエーションに富んだ人たちが近い場所に集まっていることが、岐阜ならではの面白さのような気がします。

―そういう関係を武藤さんはゼロから築かれたわけですね。
たとえば若者が何かを始める時に、意識した方がいいことは何ですか?
待っていてもだめですね。僕が岐阜に帰ってきた時も、待っていても何もなかったですから。元から岐阜に住んでいる人はすでにまわりにいろんなものがあるから、「現状維持でいい」と考えるかもしれません。でも、一度ゼロの状態になったら、後はがむしゃらにやるしかなくなります。だから自分で敢えてゼロにしてみるのはいいかもしれないですね。で、一度やってみてうまくいかなければリセットしてもいいし。
今は、やり直しがしやすい時代になった気がします。僕たちの若い頃は就職氷河期で就職が難しかったし、やり直しができずに追いつめられる空気があった気がします。でも今の社会はもっと自由で、転職をしてもいいし、新しいことを学び直してもいい。にもかかわらず、若い世代の方があまりそのことに気づいてない気がしますね。
僕が東京の設計事務所で働いていた時、「俺が事務所を変えてやる」とか「この事務所を使って俺の表現をしてやる」という能動感みたいなものを持っていた気がします。今いる環境が厳しくても、環境なんて自分で変えればいいと思うんです。今「変わらないよ」と思っている人たちが「自分で変えられるんだ」と思えたら、きっといろんなことが楽しくなると思います。
投稿日:2025.12.24 最終更新日:2025.12.24