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【前編】鼎談:岐阜とファッション。「繊維のまち」で挑む。

Gifu and Fashion.
Taking on the challenge in this “textile town.”


Profile

重田 英登さん(↑写真中央)
岐阜市出身。20歳頃からコムデギャルソン岐阜で働き始める。30歳頃からは名古屋のエリアも任され、国内トップセールスとなる。また、パリをはじめ海外での仕事を何度も経験するなど、多様な経験を積む。2016~2017年ごろより、プロバスケットボールチーム「岐阜スゥープス」の立ち上げに関わる。2018年にはセレクトショップ「一宮REFEREE」の立ち上げに関わると同時に、自身のブランド「Hmount」を立ち上げる。2021年にコムデギャルソン岐阜・名古屋を卒業後、洋服のデザインやものづくりに力を注ぎ、さまざまなイベントやセレクトショップで提供する。


中村 若奈さん(↑写真右)
岐阜市出身。学生時代にデパートで販売スタッフのアルバイトを経験。「売る」から「つくる」への興味が芽生え、2005年に岐阜のカットソーメーカーに就職。市内で製造工場まわりを経験する。2006年にアクセサリーメーカーに転職し、アパレル個人店や雑貨屋、大手企業への営業職を経験。その後、「自分のブランドを地元で立ち上げたい」という思いからパタンナーの小野信行氏とともに2008年にオリジナルウエアブランド「FRECKLE」を立ち上げ、一宮市に店舗をオープンする。2022年に店舗を岐阜市に移転。2023年に株式会社フリークルとして法人化した。


日山 翔太さん(↑写真左)
滋賀県出身。高校卒業後、京都のセレクトショップで販売員・バイヤー・店長を経験。2015年にイタリアの「Pitti Uomo」にバイヤーとして参加し、多くのメディアに取り上げられる。2017年に拠点を海外に移し、ヴィンテージ古着のバイヤーやファッションメディアのスタイリストを経験。帰国後、サンプル製作を手がける工場や岐阜の縫製工場で働き、縫製士として経験を積む。その後、2022年にデザイナーとして独立し、自身のブランド「SHOTAHIYAMA」をスタート。2023年秋冬シーズンのデビューコレクションをニューヨークで発表する。


岐阜から世界に行く。

―まず、皆さんのご経歴を教えてください。

■重田:僕が生まれ育ったのは岐阜で、親父と祖母がアパレルの会社をやっていました。ミシンを踏んでものを作っている人がいっぱいいる中で育ったので、物心がついた頃からずっとミシンで遊んでいた感じです。ファッションの専門学校を出て、名古屋のデザイン事務所に就職していろんなデザインを始めました。ただ、自分の頭の中には「もっとこういうものを作りたい」というイメージがあったのですが、それをなかなか作ることができなくて。いったんやめようと思って、長野や岐阜の山奥で歩荷という重労働をしました。そうして別の仕事をした後、コムデギャルソン岐阜で販売の応援を頼まれて、手伝うことになります。
コムデギャルソンというのは日本のブランドとして突出した部分があり、自分もその魅力にとりつかれました。デザイナーから声をかけられてパリで展示会の仕事を経験するなど、販売員の枠を超えた経験をすることができたと思います。また、30歳頃からは名古屋のエリアも任されるようになり、数字を求めていたわけではないのですが、国内でトップセールスになることができました。

■中村:すごい!

■重田:それから20年くらい頑張っていたのですが、自分のブランドを立ち上げたいと思い、在籍しながら「Hmount」という自分のブランドを始めました。その後2021年にコムデギャルソン岐阜を離れ、現在は各分野のプロフェッショナルたちとものづくりを行いながら、セレクトショップやイベントで洋服を届けています。 ■中村:私も岐阜で生まれて、岐阜のまちで育ちました。高校生くらいの時に「岐阜センサ(以下、センサ)」というファッションビルがあって、学校が終わったらすぐセンサに行って店員さんから刺激をもらい、アルバイトしたらそこで服を買うということをしていました。ブランドでいうと「ミルク」や「ヴィヴィアン・ウエストウッド」などが入っていましたね。
アパレルに興味を持ち始めて、大学時代は洋服の販売のアルバイトをしていました。そこで接客した時に感じたのが、自分でかみ砕いて説明することの難しさです。ただ「似合っていますね」「かわいいですね」だけではなく、たとえばデニムなら「これはストーンウォッシュという加工をしていて…」と説明できた方が商品を理解していただける。そういう知識の必要性を実感するうちに、自分の興味が少しずつ「売る」から「つくる」に移っていきました。「何かをつくる仕事がしたい」と思い、2005年に就職したのが岐阜のカットソーメーカーです。そこでは、ハイエースに乗って縫製工場をまわるような仕事をしました。裁断が上がったものを縫製工場に持っていったり、染色工場に持っていったりする中で、「こんな風に洋服が作られているんだ」ということを学びました。



ブランドイメージ

―そういう経験もされているんですね。

■中村:そうなんです。その時に、若かったからなのか、「自分でもできるんじゃないか」と思ってしまって。オリジナルのブランドができるんじゃないかと思ったんです。そのために何をしたらいいかは分からない。でも、あきらめたくないと思っていた頃、カットソーメーカーを退職して名古屋のアクセサリーメーカーに転職しました。そこで上司として出会ったのが、今の夫です。
夫は元パタンナーで、私も自分のブランドをいつかやりたいと思っていたから、「一緒にやってみる?」という話になって。2人で少しずつお金を貯めながら会社を辞めました。そうして2008年に一宮で立ち上げたのが、「FRECKLE」というブランドです。ボロ倉庫だった場所を自分たちで改装して何とかお店にして、裁断工場や縫製工場などはすべて電話帳で調べて依頼し、生地もオリジナルで作りました。その後、2022年に岐阜に移転し、現在は柳ケ瀬にお店があります。

■日山:僕は岐阜市を拠点に、「SHOTA HIYAMA」というメンズのファッションブランドをやっています。裁断、パターン、縫製を自分のアトリエでやっています。それ以前の話をすると、僕は滋賀県出身で、学生時代は中村さんと同じくバイトでお金を貯めて服屋さんに行き、店員さんからいろんなカルチャーを教わっていました。その中で衝撃を受けたのが、1970年代のスケーターを描いた「ロードオブドッグタウン」という映画です。そのまま1970年代に憧れ続けて、このスタイルになっています。

■重田:会った瞬間にそう思った(笑)。

■日山:そのまま高校卒業と同時に始めたのが販売員です。20歳からは京都で自分たちの店を立ち上げるんですけど、25歳ぐらいからイタリアの「Pitti Uomo(世界最大のメンズファッションの見本市)」など海外の展示会に足を運ぶようになり、現地で取材されることが増えてきました。その時、「もっと世界に行けるんじゃないか」と思って、26歳の時に海外で生活することを決めたんです。お店を卒業させてもらって、1年ちょっとかけて10か国くらいを旅しながら、スタイリストや古着のバイイングをしました。
海外でいろんなデザイナーたちと出会って感じたのが、日本のデザイナーとの違いです。彼らは自分の家にミシンを入れて、その日に作ったものをその日に売ってお金を稼いでいる。そういうあり方を知って、デザイナーになりたいという気持ちがさらに高まりました。
帰国と同時に働き始めたのが、サンプル製作を手がける東京の縫製工場です。そこで1年半働いた後、テーラーの技術を学ぶために岐阜に来ました。縫製工場で2年ほど働く中で「繊維のまち」としての岐阜の強みを感じ、岐阜を拠点にブランドを立ち上げました。

■重田:岐阜に来てどれくらい経つんですか?

■日山:今年で5年目です。デビューコレクションをニューヨークで行ったんですが、初めから「岐阜から世界に行く」というマインドで挑戦しようと思っていました。

 

職人さんの技術とあたたかさ。

■中村:私はいろんな人からよく重田さんの話を聞いていました。「岐阜のコムデギャルソンにすごいカリスマの方がいて、その方がいるからお店が健在なんだ」と。

■重田:それはあれなんですよ。僕らが岐阜にいて、本当にいろんなことを経験させていただいたおかげです。若い頃からものづくりの現場や職人さんの技術を見させてもらって、知識を持っていた。だから、お客様に対して説得力のある説明ができました。一つの例として、繊維に圧力をかけて縮ませる「縮絨(しゅくじゅう)」という加工があるんですが、その縮絨を初めてやったのは岐阜の会社です。そういう特別な現場を見てきているので、商品の扱い方などを伝える際にお客様にひと言添えることができました。さっき中村さんが言われたのと同じで、生地についても糸レベルから説明できたら、説得力が生まれるじゃないですか。

■中村:そうですね。

■重田:そういうことをしていたら、東京や大阪などからもお客様がわざわざ僕たちのアドバイスを聞きに来てくださるようになりました。それで岐阜の店がよく売れた、ということです。
エッジの効いた商品が好きな人って、突き詰めるとすごくマニアックだと思うんですよね。僕らはあえて、そこを刺激したんです。なぜかと言うと、そのこだわりに対応できる自信があったから。その人たちのマニアックな部分をなるべく早いタイミングで引き出して、自分たちの世界で対等に話す。そういうことを意識していました。


ブランドイメージ

―ものづくりの現場が身近にあることは大きな強みなんですね。

■日山:岐阜にいると職人さんにすぐ会いに行けますよね。困った時にすぐ会いに行けるので、良い品質のものが作れていると感じます。

■中村:一般的には「アパレル=東京」というイメージがありますが、岐阜だけで十分洋服づくりができますよね。そして、私がいつも感じているのは岐阜の縫製工場さんや職人さんのあったかさです。私たちがブランドを立ち上げる時も、お願いした職人さんがほぼ全員仕事を受けてくれました。何も分からない私たち若造が、「こういう生地が作りたいんですけど」などと質問した時に、「こうした方がいいよ」「これくらい時間がかかるよ」と一つひとつ教えてくれて、一緒にやってくれたんです。仕事でありながら仕事ではないような感覚で、リアルなものづくりができました。それで少しずつ成長できて、今に至る感じです。この地域だから実現できたことだと思います。

■日山:あったかさを感じますよね。僕は毎日ミシンを踏んで服を作っているんですが、ボタンホールの加工は近所の職人さんにお願いしているんです。出来上がった服を自転車で運んで、おばちゃんに「これお願いします。明日取りに来ていいですか?」と言うと、「今日の夜できるから、あとで取りにきなよ」という感じで対応してくれます。人と人の関わりを感じながらものづくりができています。

―日山さんは以前、岐阜の縫製会社で働いていたそうですが、どのようにしてその会社を見つけたんですか?

■日山:日本全国を調べて見つけました。布帛(ふはく)というのですが、ジャケットとかパンツとかそういうものを作りたくて、縫製をしている会社を検索したんです。そうしたらたまたま岐阜の会社が出てきて、「どうしてもここに入りたい!」と思って作戦を考えました。まず、履歴書の入れものをミシンで作って。玉縁のポケットを作ってフラップをつけて、そこに手を突っ込むと、「僕にチャンスをください」というメッセージが出てくる。

■重田:それは受かるわ(笑)。

■日山:その会社では、たとえばポケットなら100個とか200個作って、襟をつけるなら1日中同じことをする。ブランドやシーズンの違いによって同じ襟でもつけ方が変わってくるので、何回も同じことを繰り返して自分の手になじませる経験をしました。

―その頃、日山さんの支えになったのはどんな思いですか?

■日山:「世界で戦いたい」という思いですね。自分がデザインしたものを人に届けることに感動があると思っていて、それを世界でやりたいと思っていました。
たとえば今の自分が突然アメリカに放り出されても、ミシンがあれば服を作ってその日に売れる力があると思っています。そういう力を身につけるために必要なことは何かを考えた時、まずは技術が必要だと。下積みが必要だと考えました。 でも、めちゃめちゃ歯がゆかったですけどね。27歳から30歳くらいまで、僕のまわりのデザイナーたちは華やかにバンバン動き出していく。それを横目で見ながら、僕は毎日ポケットを200個つけて……。

■重田:「今に見てろよ」みたいな?

■日山:そうです。SNSの世界って、誰かの華やかな生活が見えてしまいますよね。そのギャップ、その気持ちを押し殺すのに1年かかりましたね。ただ、自分のブランドをやり始めるようになった今は、岐阜が自分の作りたいものを表現できる場所であることをひしひしと感じます。服を通していろんな感動を経験してきたので、それをもっと広げていきたいと思い、岐阜にいながら少しずつ発信しているところです。今は東京の会社さんからお話をいただくことも多く、映画やテレビにメディア露出したり、ステージ衣装を提供したりする機会も増えてきました。


ブランドイメージ


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