織田信長公と岐阜
の山頂に立つ岐阜城を拠点に天下統一を目指した織田信長公は、この地でさまざまなことを行いました。一つ目は、当時“井ノ口”と呼ばれていたこの地を“岐阜”と改めたことです。二つ目は、商業を活性化させた「楽市楽座」と武士と農民を身分的に切り離した「兵農分離」の施行。市場がある城下町に人を住まわせ、まちを作り上げるという結果を生みました。三つ目は、「天下布武」の印を使い始めたこと。4文字に願いを込め、天下統一を志しました。また、“冷徹非道”というイメージが強い信長公ですが、軍事だけでなく、文化の力で有力者をもてなすことで仲間を増やしたともいわれています。
平成27年4月24日、岐阜市の「『信長公のおもてなし』が息づく戦国城下町・岐阜」として織田信長公が人々をもてなしたというストーリーが、日本遺産第1号に認定されました! これまでの信長公のイメージを覆す物語を振り返りながら、岐阜市のまちをめぐってみましょう。
信長公は岐阜の地で何を行ったのか?
1.岐阜の命名
織田信長公は永禄10(1567)年、斎藤龍興を破り、美濃を攻略しました。そして町の名をそれまでの「井の口」から「岐阜」へと改め、岐阜城に拠点を移して天下統一に乗り出したのです。命名については信長公が自ら命名したという説のほか、尾張の政秀寺の僧侶・沢彦宗恩が提案した、または崇福寺の住職・柏堂景森の進言によるものだったとの説も伝えられています。
2.楽市楽座・兵農分離
岐阜に入城した信長公は、戦乱で荒廃した町を復興させるために「楽市楽座」の政策を打ち出し、経済の活性化を図りました。これは特定の商人しか商売が許されなかった時代に、誰もが自由に商売ができるという画期的なシステムでした。また、「兵農分離」により、専業の武士団を組織して兵士と土地を切り離すことで、経済力、武力、生産力をそれぞれ向上させ、人が集まる城下町を作り上げました。
3.天下布武印の使用
信長公は永禄10(1567)年11月から中国の教えを引用した「天下布武」の印を使い始めます。「武力をもって天下を統一する」「天下に武を広める」となどという意味で捉えられる言葉ですが、「七徳の武を備えた者が天下を治める」という信長公の平和な国づくりへの願いが込められていたともいわれています。印そのものは、大量の文書をさばくためのツールとして用いられました。
信長公ってどんな人?
信長公が岐阜城やその城下町で行った、手厚いおもてなしエピソードをご紹介します。
episode.1 「ルイス・フロイス」
ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは「山麓居館」を見学したほか、重要な軍事施設である岐阜城内にも招かれました。豪華な座敷ではお茶や食事がふるまわれたそう。その際に、膳を運んだのが信長公だったと記されています。
episode.2 「フランシスコ・カブラル」
宣教師フランシスコ・カブラルが訪れた際、信長公は歓迎の晩餐会を開いたといわれています。その食事までの待ち時間には、自ら果物を持ってカブラルをもてなしたほか、庭の鳥を殺して料理に出すように命じたともいわれています。
episode.3 「津田宗及」
堺の商人で茶人の津田宗及(つだそうぎゅう)が名物茶器拝見のために岐阜を訪れた際、信長公は彼のためだけに茶会を開き、美濃の特産である干し柿を含んだ豪華な料理をふるまいました。食事は信長の息子・信雄が給仕し、飯のおかわりは信長公がよそったといわれています。
信長公おもてなしの舞台
山麓居館跡
巨大庭園を備えた居館では建物や庭の見学、踊りや歌の披露、食事や茶会などが行われたといわれています。近年の発掘調査で発見された金箔瓦は、信長公が居館を築いたときから使われていた可能性が高いと考えられています
(復元) (復元)
岐阜城
信長公は軍事施設である城にも客人を招待しました。限られた人しか入ることのできない特別な場所で、通常家臣が行うような案内や給仕を信長公は自ら行ったそうです。
ぎふ長良川鵜飼
信長公が保護し、現代まで伝統が引き継がれてきた鵜飼。江戸時代の俳聖・松尾芭蕉のほか、近年には英国皇太子やチャップリンなど、国内外の著名な賓客が岐阜へ鵜飼観覧に訪れています。
濃尾平野を一望する山上からの絶景
岐阜城見学のため、山上を訪れた客人たちを迎えたのは、信長公のおもてなしだけはありませんでした。金華山の頂から、濃尾平野を一望する絶景は、山上に城を構えていたからこその特別な景色。京都の公家・山科言継は「剣難の風景、言語に説くべからず」とその感想を残しています。
昔も今も、多くの人々を魅了する山頂からの大パノラマは、岐阜市の大きな見どころであることに変わりはないようです。
おもてなし上手だった信長公
ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが岐阜を訪れた際、信長公は自ら食膳をフロイスに運び、汁をこぼさないよう優しく声をかけたとされています。ほかにも武田信玄の使者であった秋山伯耆守や堺の茶人で商人の津田宗及など、信長公の手厚いおもてなしを受けた有力者たちの数々のエピソードが残されています。
津田宗及に振る舞われた料理の復元。実際の会席の場にはさまざまな茶道具が飾られていたそうです。信長公の甥の信澄と二男の信雄が給仕を務め、ご飯のおかわりは信長公が自ら運びました。
織田信長公はやわかり年表
1534年 | 尾張(現在の愛知県)で生まれる 誕生日は5月12日といわれています |
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1549年 | 稲葉山城主・斎藤道三公の娘である濃姫と結婚 |
1554年 | 那古野城から清洲城(現在の愛知県清須市)へ移る |
1563年 | 小牧山(現在の愛知県小牧市)に築城開始 |
1567年 | 稲葉山城を攻撃。城主・斎藤龍興(道三公の孫)を追放して入城! 町の名を「井の口」から「岐阜」に改名する 10月に楽市楽座制札を出す 11月に天下布武印を使い始める |
1570年 | 姉川の戦いで朝倉・浅井連合軍に勝利! |
1571年 | 比叡山延暦寺(現在の滋賀県大津市)を焼き討ち |
1573年 | 将軍・足利義昭を京都から追放 |
1575年 | 長篠の戦いで武田勝頼(信玄の息子)に勝利! |
1576年 | 安土へ移る |
1582年 | 本能寺の変で自刃 |
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『信長公のおもてなし』が息づく戦国城下町・岐阜のストーリーを紹介
冷徹非道、戦上手といったイメージが強い信長公ですが、岐阜城やその城下で行ったのは戦いではなく、意外にも、手厚い“おもてなし”だったのです。彼は有力者を軍事の力で征服するだけでなく、文化の力でもてなすことで仲間を増やしていきました。
岐阜城に入城した信長公はまず、城の改造に着手し、巨大庭園を持つ館を山麓に築きます。それはまるで山水画の世界を原寸大で再現したような壮大なスケールで、当時、岐阜を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスはそれを“宮殿”と称し、「“地上の楽園”のようであった」と記しています。さらに信長公は、軍事施設である城に「魅せる」という独創性を加え、要人を招き入れました。そして自ら食事を配膳したり、城内を案内したりするなどして信長流のおもてなしを行ったのです。また、信長公は接待に長良川鵜飼を用い、漁師に「鵜匠」の地位を与えて鵜飼を保護したと伝えられています。
一方で城下町は「楽市楽座」によって繁栄し、フロイスはそのにぎわいを「バビロンの混雑」と表現しました。
そうして織田信長公が形作った戦国時代の城や町、そして長良川の鵜飼文化は、現在もこの地に受け継がれているのです。
日本遺産認定
平成27年4月24日、文化庁は「『信長公のおもてなし』が息づく戦国城下町・岐阜」のストーリーを「日本遺産」の第1号に認定しました。
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投稿日:2015.12.11 最終更新日:2024.02.29