iju interview

Vol.6(藤谷幹さん、郁美さん、至くん)

仕事も、暮らしも。故郷の岐阜市で、納得がいく環境を自分たちで築く。

Interview 藤谷幹(もとき)さん、郁美さん、至(いたる)くん

Interview 藤谷幹さん、郁美さん、至くん

東京か、岐阜か。
話し合いの末、決断したUターン。

2021年の年の瀬、藤谷幹さん、郁美さん夫妻は、長男の至くんとともに東京から岐阜市へ住まいを移し、築43年の一戸建てで、新生活をスタートしました。

幹さんと郁美さんは、岐阜市で生まれ育った金華小学校(現・岐阜小学校)の同級生。お互いにそれぞれの道を歩み、幹さんが東京で大学院生となり、郁美さんが名古屋市の会社に勤めていたときに、共通の友人を通じて再会したことをきっかけに交際がはじまり、結婚。2021年4月に至くんが誕生しました。

岐阜市のまちづくりに関わりたいという思いから、幹さんにとっては念願のUターン。

岐阜市のまちづくりに関わりたいという思いから、幹さんにとっては念願のUターン。

東京で学生生活をはじめてから10年来、いつかは岐阜市に帰りたいという思いを募らせていた幹さんにとっては、念願のUターンでした。ところが一方で、郁美さんは2016年に上京して以来、岐阜に戻るという選択肢はなかったといいます。

「前職の不動産業で勤続4年目を迎え、独立が視野に入ってきて、さらに妻の育休が終わるタイミングを考えた時に、岐阜に帰るなら今だと思ったんです」。(幹さん)

「でも、私は東京で中国語の通訳士として働いていて、仕事も生活もとても楽しかったので、正直、岐阜に帰ろうとは思ってもいなかったんですよ」。(郁美さん)

最終的にどちらかが譲ったとしても、お互いに納得をしたうえで、自分たちにとって一番幸せな選択をしたい。Uターンに対して、正反対の意見を持っていた幹さんと郁美さんは、時にはぶつかりながらも、話し合いを重ねました。

当初は移住に後ろ向きだった郁美さん。今は、岐阜市の環境でもやりたいことを実現できるよう模索中です。

当初は移住に後ろ向きだった郁美さん。今は、岐阜市の環境でもやりたいことを実現できるよう模索中です。

郁美さんにとって特に岐阜市へのUターンの大きなハードルとなっていたのは、転職でした。

中国語の通訳士としての仕事、そしてお世話になった人たちがいる会社を離れたくないという思いが強かった郁美さん。当初は通訳士としての仕事を続けたいという希望から、外国人観光客が多い岐阜県北部の飛騨高山への移住も検討していましたが、岐阜市のまちづくりに関わりたいという幹さんの強い意志を尊重し、岐阜市へのUターンを選びます。

しかし、岐阜市で中国語の通訳の仕事を探すも、東京に比べて選択肢が非常に少ないうえに、コロナ禍による観光業の衰退が追い討ちをかけ、希望の仕事は見つかりませんでした。勤めていた会社にも相談したところ、運良く岐阜市にある「長良川うかいミュージアム」を勧めてもらうことができ、岐阜市で働けることになったのです。

そして、二人はどちらかの実家に戻るのではなく、岐阜市内で中古物件を購入して家族3人で新生活をスタートするというかたちで、Uターンを決断したのでした。

変化する“ふるさと”の見え方

高校時代まで岐阜市での暮らしに閉塞感を感じていたという幹さんは、卒業後は迷わず東京の大学に進学。故郷に対する気持ちに変化が訪れたのは、大学の建築学科でまちづくりを学び始めた頃でした。

「帰省する時は岐阜駅から実家まで、必ずまちを見ながら歩いて帰っていました。すると、建築的な視点からまちを見ると、結構新しいお店ができていたり、岐阜市にはまだまだポテンシャルがあるということがわかってきたんです」。(幹さん)

大学時代は建築学科でまちづくりを学んでいた幹さん。仕事部屋にはまちづくりや不動産関係の書籍が並んでいます。

大学時代は建築学科でまちづくりを学んでいた幹さん。仕事部屋にはまちづくりや不動産関係の書籍が並んでいます。

さらに、幹さんが20歳の時に東日本大震災が発生。震災復興のプロジェクトに携わるなかで「まちづくり」の苦労を知り、そうした苦労ややりがいを自分の生まれ育ったまちで味わいたいと考え、岐阜市へのUターンの意志が確固たるものになったといいます。

郁美さんは、実際に岐阜市に帰ってきて、今までは感じることのなかった魅力に少しずつ気がつき始めています。

「みんな岐阜市は自然がきれいだというけれど、大したことないと思っていたんです(笑)。でも、仕事の昼休みに長良川のプロムナードでご飯を食べながら、ふと景色を眺めると、本当にきれいだったんだ…とハッとして。たったそれだけでも、間違いなくふるさとに住むメリットはあると思いました」。(郁美さん)

郁美さんが「子育てはほとんどストレスフリー」と言うほど、至くんは健やかに成長。

郁美さんが「子育てはほとんどストレスフリー」と言うほど、至くんは健やかに成長。

また、子育てにおいては、東京では多く利用されているベビーシッター制度などのサービスが岐阜市では根付いていなかったりするのも事実ですが、保育園の待機児童数がゼロであるということや、身近に触れられる自然や公園が多くあるなど、大きなメリットがありました。

さらに、一度東京に出たからこそ見える、岐阜市の一面も見つけられたといいます。例えば、東京と岐阜市を比べることで、岐阜のまちの魅力や課題が浮き彫りになり、東京で学んだビジネスモデルを岐阜市で再現することで、岐阜市にはなかった新しい仕事を生み出すことができる可能性に気づいたそう。

自宅の一室が幹さんの仕事部屋。在宅ワークの環境を整え、子育てと仕事を両立しています。

自宅の一室が幹さんの仕事部屋。在宅ワークの環境を整え、子育てと仕事を両立しています。

そして、幹さんはUターンを機に「まちアーキ不動産」として独立し、在宅で仕事ができる環境を整えたことで、共働きでの子育てを実現することができました。しかし、実はこの環境を整えられなければ、おそらくUターンに踏み切ることはできなかったかもしれないといいます。

自分たちが心地よく暮らし、働くことができる環境を、“自分たちの手で”整えようとする強い信念と行動力が、藤谷さん一家の暮らしの土台を築いているのかもしれません。

次は自分たちの世代が、
岐阜市をもっとおもしろくしていきたい。

岐阜市に帰ってきて、およそ半年。2022年4月には郁美さんが育休後の職場復帰を果たして長良川うかいミュージアムで働き始め、至くんは保育園に入園。幹さんも5月から本格的にフリーランスでの不動産事業をスタートして、新しい暮らしが一歩一歩、軌道に乗り始めています。

仕事に対しても、暮らしや子育てに対しても、それぞれに信念を持ちながら、互いに一人の人間として意見や思いを尊重し合うベストパートナーの幹さんと郁美さん。

そんなお二人がこれからの岐阜市での暮らしに対する期待として話してくれたのが、「熱い思いを持った同世代とつながりたい」ということでした。

何度も繰り返し話し合って、移住を決断しました。

何度も繰り返し話し合って、移住を決断しました。

「僕たちは今32歳で、周りも独立したり、家庭を持ったりと、おもしろい年齢になってきたなと思っています。これまで、少し上の世代の方々がまちを盛り上げてきてくれたので、次の世代として岐阜市をおもしろくしていきたい。だから、この年齢で帰ってきたんです」。(幹さん)

「岐阜市は小さいまちなので、新しいことや楽しいことをやろうとしている人とは、自然と出会えるのがいいところ。そういう人たちとの関わりは刺激的で、自分のモチベーションも上がります!」(郁美さん)

これからも、納得のいく選択を重ね、家族3人で支え合いながら人生を歩んでいきます。

これからも、納得のいく選択を重ね、家族3人で支え合いながら人生を歩んでいきます。

お二人は、仕事でも暮らしでも、新しい環境のなかで困ったときには、出身地ならではのネットワークに支えられることがあるといいます。また、東京でキャリアを積んだ20代があるからこそ、30代になった今、地元でできることがあり、同じ思いを持つ同世代の仲間とともに、岐阜をもっとおもしろくしたいと願っています。

迷いや葛藤に向き合い、お互いが納得のいく選択を重ね、岐阜の地で人生の新章の幕を開けた藤谷さん一家。きっとこれから、岐阜市に新しい風を吹き込んでいくことでしょう。


まちアーキ不動産
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