Special Feature 01

着る人の心が動く、刺繍を届けたい 自社ブランドを立ち上げた職人の想い

ユタカ工房

加藤千尋さん加藤千尋さんは、岐阜市内で30年以上続く刺繍工房の三代目。石川県の大学を卒業後、実家に戻り、父の教えを受けながら刺繍職人としての経験を積み始めた。しかし仕事に慣れるうちに、繊維産業の厳しい現実が見えてきたという。
「業界の波に左右されやすく、途絶えずに仕事がくる保証はありません。繊維業界で下請けとして安定して事業を続けるのは本当に難しいと感じました」
誇るべき伝統を持つ岐阜の繊維産業だが、先の見通しは決して明るいとはいえない。安価な海外製品に押され、衣料品メーカーの多くが苦境に立たされている。加藤さんはこの業界の未来に希望を持てず、転職も考えたという。悩む日々が2年ほども続いた時、東京である対談イベントを見学する機会があった。出演者の一人は、愛知県一宮市でテキスタイルブランドを営む、同年代の女性。その人は、苦境下にある繊維業界の中で、貴重な製造技術を存続させようと奮闘していた。
「その方は、厳しい状況の中で必死に立ち上がろうとしていました。一方で、私は同じ業界で同じような課題に直面しているのに、何もチャレンジしていない。その事実を突きつけられ、雷に打たれた気がしました」
行き先が見えた瞬間である。仕事がないのであれば、自分で生み出せばいい。ブランドを立ち上げるという発想が、その時からどんどん膨らんでいった。刺繍業者がブランドを持つ場合、小物やアクセサリーを扱うケースが多いそうだが、加藤さんはあくまで洋服のブランドとして勝負したいと考えた。
「刺繍のことしか知らなかった私にとって、洋服を一着つくることはとても高いハードルがあります。でも、お客さんの立場で考えると、自分ならやはり洋服を通して刺繍を楽しみたいと思ったんです。誰もやっていないことでしたが、挑戦してみたいと思いました」

加藤千尋さんそうした道のりを経て2019年5月に立ち上げたのが、刺繍ブランド「iCONOLOGY(イコノロジー)」である。「人の感情に訴える力こそが刺繍の魅力」と考え、刺繍のモチーフに花を選んだ。花には、時として人生と強く結びつくような、不思議な存在感がある。身にまとうことによって、心が動いたり気持ちが持ち上がったりするような洋服を、自分の手でつくりたいと考えた。
しかし、ブランドの立ち上げがすべて順調に進んだわけではなく、多くの失敗も経験したそうだ。そんな時に力を貸してくれたのが、地元の繊維産業を支える技術者たちである。パターンを引く人や縫製する人、裁断する人。それぞれの人が、デザイナーである加藤さんの意図を理解し、プロの立場から適切なアドバイスをくれた。また、ボタンなどの服飾付属品や梱包資材を取り扱う業者なども人づてに紹介してもらい、商品生産の体制を整えた。
「洋服を作るために必要な会社や人材は、すべて岐阜にそろっています。しかも近い場所に集まっているので、課題が生じてもすぐ相談に行ける便利さがあります。まさに地の利ですね。一つのことをずっと続けてきた人たちのすごさ、岐阜で育まれてきたアパレル産業の底力を知りました」
たくさんの人の支えを得ながら、一着の洋服をつくる。その苦労が喜びに変わるのは、お客さんのリアルな反応が届いた時だと加藤さんは言う。今までは、自分の刺繍がどんな人の手に渡るか分からず、そのことに寂しさを感じていた。でも、今は違う。商品に対する喜びの声が、たくさん届くようになった(「刺繍の美しさに泣いてしまいました」という人もいたそうだ)。ブランドに注いだ加藤さんの想いは、確かに伝わっている。

ユタカ工房 刺繍


■ ユタカ工房
30年以上続く刺繍工房。三代目にあたる加藤千尋さんは、大学時代に西洋美術史を専攻し、スペインやポルトガルへの留学経験もある。そうした経験も活かして立ち上げたのが、「図像解釈学」の意味を持つ刺繍ブランド「iCONOLOGY」だ。「着る人の人生の一瞬と重なるような図像を、刺繍で表現したい」と話す。

【住所】岐阜市御望2-78
【お問い合わせ】 058-239-0606