2020年 岐阜市がアツい|麒麟がくる 岐阜 大河ドラマ館
開館期間
2020年1月11日(土)~2021年2月14日(日)
2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の放送に合わせ、岐阜市歴史博物館2階に「麒麟がくる 岐阜 大河ドラマ館」を開館。メイキング映像を使用したドラマシアター、ドラマに登場する衣装や小道具の展示など、大河ドラマに関する企画展示のほか、博物館の所蔵品を活用した戦国時代の歴史展示も見ることができます。中でもドラマのセットを忠実に再現した「体感 道三の館」は迫力満点で、登場人物になった気分で写真撮影が可能です。また、岐阜公園・金華山一帯を「稲葉山城ゾーン」と称し、大河ドラマに登場する岐阜ゆかりの三武将(明智光秀公、斎藤道三公、織田信長公)にちなんだ3つのエリアを設定し、各エリアとも魅力ある展示となっています。
岐阜市まちなか歩きMAP マップを片手にゆかりの地をめぐろう
岐阜市内で「岐阜市まちなか歩きMAP」を配布しています。斎藤道三公が築いた城下町の足跡をたどる「道三の道」や、織田信長公が描いた夢の足跡をたどる「信長の道」など、テーマに合わせてゆかりの地を紹介しています。
【配布場所】
岐阜市観光案内所/岐阜公園総合案内所/岐阜市歴史博物館/岐阜市鵜飼観覧船事務所/ぎふ金華山ロープウェー ほか
岐阜市歴史Topics
Topics01|信長公居館跡の滝再現へ
信長公居館跡には7つの庭園があったとされています。最も大きな庭園に落差約35mの滝が2本あったことが分かっており、岐阜市では現在、その滝を再現しようと現地に水を流す事前調査を実施。調査の様子は観光客にも公開し、夜間ライトアップも行う予定です。
Topics02|史跡岐阜城跡の山上部で新たな石垣を発見!
金華山山上部で行われた分布調査では、裏門があったとされる場所の周辺で巨石列や石垣が発見されたことにより、これまで謎に包まれていた裏門の構造が明らかになることが期待されます。
1.水手道(めい想の小径)沿いで発見された信長期の巨石列 2.信長期の石垣 3.山上部では初めて、道三期に造られた石垣が発見されました。信長公による城の改修時に、道三期の石垣がそのまま利用されていたことが分かります
イベントInformation
岐阜まつり協賛 道三まつり ※開催中止
開催日:2020年4月4日(土)・5日(日)※開催中止
会場:中心市街地
伊奈波神社の例祭「岐阜まつり」の同日と翌日曜日に開催される「道三まつり」。斎藤道三公ゆかりの常在寺が無料開放されるほか、みこしパレードもあります。
ぎふ信長まつり
開催日:2020年10月3日(土)・4日(日)
会場:中心市街地
織田信長公の偉業をたたえて行われ、芸能人や一般公募で選ばれた人々が戦国武将や姫に扮してパレードを行います。信長父子の廟所を置く崇福寺では追悼式も行われます。
同時開催 日本食文化会議2020 岐阜
“食”に関する最大級の著作家ネットワーク「日本食文化会議」は、日本の食文化の発展・継承などを目的として毎年、全国大会を開催。2020年に岐阜市で行われる大会の最新情報はWEBサイトにて。
http://jfcf.or.jp/
小和田 哲男さんプロフィール
歴史学者・文学博士。1944年静岡市生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。静岡大学名誉教授。専門は日本中世史で、戦国時代史の研究において第一人者として知られる。大河ドラマ「秀吉」、「功名が辻」、「天地人」、「江~姫たちの戦国~」、「軍師官兵衛」、「おんな城主 直虎」でも時代考証を担当。
「麒麟がくる」の主人公・明智光秀公はどのような人物でしたか?
これまで、明智光秀公といえば、主君・織田信長公を本能寺で襲って殺した主殺しの悪人のようないわれ方をしてきましたが、私は、「本能寺の変」は一種の世直しだったと考えています。光秀公は、信長公の暴走を止めにかかったのではないかと思うのです。どうしても、歴史は勝者に都合よく書かれる形になりますので、その後に天下を取っていった豊臣秀吉公によって、光秀公は実際以上に貶められてきたのではないでしょうか。私は、光秀公は教養も常識もあり、正義感あふれる武将であったと考えており、大河ドラマ「麒麟がくる」でも、そのような人物として描かれるものと思います。
光秀公の主君であった斎藤道三公はどのような人物でしたか?
以前は、司馬遼太郎さんが「国盗り物語」で描いた斎藤道三像が定説とされていました。はじめは京都の妙覚寺で修行していて、途中で寺を飛び出し、大山崎の油商人に婿入りし、油を売って美濃に来たところで美濃守護・土岐氏に仕え、ついにはその土岐氏を追放し、自ら戦国大名になったというものです。ところがその後、新史料が発見され、土岐氏に仕えるまでのところは父親の履歴だということが明らかになりました。したがって、現在は父・長井新左衛門尉と子・道三公の二代がかりの国盗りだったことが明らかになっています。その道三公ですが、「蝮の道三」と恐れられたように、悪辣な手段で土岐頼芸にとって代わったことは確かです。しかし、あの“大うつけ”などといわれた信長公と一回会っただけでその将来性を見出すなど、人を見る目はあったと思います。信長公の父・織田信秀と手を結ぶなど、戦略眼もありました。
光秀公と道三公の関係性は?
光秀公の前半生はほとんどわかっていません。ただ、美濃守護だった名門・土岐氏の一族だったことは当時の史料にも出てきますので、国人領主(※1)クラスの城主の子だったと思われます。いくつかある系図の中に、光秀公の叔母にあたる女性(小見の方)が道三公に嫁いでいて、帰蝶(濃姫)が生まれたとあります。光秀公と帰蝶はいとこと考えられますので、光秀公も早くから稲葉山城(現在の岐阜城)には出入りしていて、道三公の小姓(※2)ないし近習(※3)のような立場で、若くして道三の薫陶を受けていた可能性はあります。道三公の長男・斎藤高政(後の義龍)とは年齢も近く、もしかしたら、机を並べて勉学に励んでいたのかもしれません。
(※1)居住する土地を中心に独自の勢力を築いた武士。領主として直接農民層を支配していた(※2)武家の職。将軍や藩主などに仕えて身の回りの雑用を務めた(※3)主君のそばに仕える者。主に主君の身辺警護にあたった
戦国時代の岐阜市はどのような様子でしたか?
道三公の時代は、城は稲葉山城、城下は井口といっていました。それを信長公が、城も城下も、「岐阜」と改めています。道三公時代の井口がどのような城下町だったかはよく分かっていませんが、いくつかの寺社が並んでいたことが知られています。伊奈波神社をはじめ瑞龍寺やその鎮守である橿森神社のほか、楽市場の制札で知られる円徳寺の前身である浄泉坊もありました。また、当時の人の道中記には井口に宿泊している様子が書かれていますので、宿駅機能もあったと思われます。そしてそうした人々の需要を満たす市も開かれていました。その後、この地に入った信長公が楽市として商業活動を奨励したことで、まちはさらに発展したものと思われます。物流は舟運によったので、長良川沿いにある岐阜は大きな城下町となりました。
歴史的な観点から見た岐阜市の魅力は?
現在、金華山山麓の信長公居館の発掘調査が進められています。私もその史跡岐阜城跡整備委員会の委員を務めていますが、信長公時代の庭園跡がいくつも出てきてびっくりしている次第です。この部分が整備されると、信長公時代の岐阜城がより分かりやすく見られるのではないかと期待しています。また長良川の鵜飼は、信長公の時代にもおもてなしとして文献に見られます。そのため歴史のまちとしての岐阜の魅力は深いと思いますね。
織田信長公居館跡発掘調査の様子。現在も信長期や道三期に作られた石垣が発見されるなど、新たな調査結果が報告されています。
斎藤道三公の遺骸が葬られている「道三塚」(岐阜市長良福光2495)。一度、洪水で流失し、天保年間(1830〜43)に現在の場所に移されました。
※インタビューは2019年8月現在のものです。